自分が受けている講義の中に、ひたすら本の朗読をする講義がある。
講師はご老体で、その教本の内容についての解説を熱く語って下さる。
私は老人の話を聞くのが割と好きなようで、他の受講者が退屈そうにしている中、メモ用紙にせっせと書き留めながら耳を傾けている。
本を朗読する際は、せっかく人前で話す機会だからと、なるべく抑揚をつけて語る練習をしている。
如何せん、マスクをしているおかげで口周りが湿気てしまい、語りすぎるとしゃべり辛くなるが。
しゃべりやすくならないかと、「唾液の減らし方」を検索してしまうくらい、この講義を気に入っているようである。
嫌いな講義には毎度呪詛をかけながら受けているというのに、不思議なものである。
それはそれとして。
話が上手くなりたい。
話すことではなく、話す内容が上手くなりたい。会話術とでもいうのか。
よく話術の本が売られているのを見かけるが、その手の本手を出したら終わりだと、何故か感じている。
アニメもライトノベルもそうだが、私は沼に浸かると深く潜る癖があるので、それを警戒しているのかもしれない。
(あと、会話を学ぼうとする異星人の思考というか、ある種のサイコパスさを感じているのかもしれない。)
そういうものではなく。
実地で学びたいというか。
この前、別の友人に連れられて、落語を聞きに行く機会があった。解説付きで落語初心者の私でも楽しめた。その中で、真打の方が言っていた、「昨日今日のことが落語になる」という言葉が耳に残っている。普段の出来事から話が出来上がる、経験を語る力とでもいうのか、そのような力をつけたい。
それを考えると、友人が普段やっているダジャレを出しまくる行為はある意味実地で学んでいる。
アドリブが大事、口走ることが大事と言っていたように思うが、なるほどである。
ただ私が同じようにダジャレを言うと周りも困るだろう。この役はお相撲さんに任せよう。
では、どうしたらよいだろうか。
私が受けている別の講義の中で、日記や手記が文化史における心性・気持ちの歴史(日常における歴史)となると言っていた。
私は面白い話(作品のネタ)が浮かんだらメモを取るようにしている。
これを普段の生活の中でも行うようにすればよいのか。日記、あるいは個人ブログでも始めようか。
その様に日々のネタを留めておいて、話の中で連鎖反応が起きるまで待つ。
ある種、効率化された長田である。
まあ、上手いことを話せた!と思った矢先に返ってくる言葉は大抵、
「なんて言った?」
であるから、何とも言えぬ。
次は「声を大きくしたい。」というタイトルの話でもしようか。
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